音楽、絵画と文学のライブ感について

 小説を書くときに、プロット(いわゆる小説の設計図)をきちんと作れと言う人は多い。小説の指南本なんかを読んでも、そう書いてあるものが多い。登場人物のプロフィール、年代の設定、風俗流行の確認、ストーリー展開等々をきちんと決めて、突き詰めてから書き始めなさい、というものだ。たしかにそれも一手だろうと思う。とりわけ小説を書き始めた人は、そういう指針がないと先に進まなくなる傾向はある。

 しかし、この方法にはライブ感がないのだ。私もこの方法を何度か試してみた。もうこれ以上はない、というところまでプロットを詰めて書き始めたが、途中で、ん?まてよ?と思いだした。決めていたストーリーに飽き足らなくなったのだ。あの時はそれがいいと思ったのに、書き始めるとどうもしっくりこない。じゃあってんで、修正して書き進めると、まるで初発の角度がほんの少しずれたロケットのように、着弾地点は大きくずれてしまう。書き始めのときには思いもよらなかった全く別の話になってしまった。

 そうした経験が何度か続いて、プロットなんか作るだけ手間で、意味がない。と思うようになった。

とは言っても、大まかな設定は必要だ。昔の話なのか、今の話か。何人登場するのか?若者か老人か。ぐらいは決めてもいいだろうが、あとは書き進めながら、その時のイメージに従うしかない。それでいいのだと思うようになったのだ。

 

 先日、ある読み物で、ミュージシャンがライブで忘我の境地を経験するという話を読んだ。その人は良いライブ演奏が出来たときに、興奮の余り射精してしまったというのだ。全身全霊をこめて集中し、ほかのミュージシャンの音に耳を傾け、自分の音を出していく作業は、音楽を止めてはならない宿命ゆえ、小説執筆とは全然異次元のものであろう。演奏の一瞬一瞬に五感のすべてを総動員して、次の音を探していく作業はスリリングゆえに、われを忘れる魅力があるのだと思う。

 それは楽譜がちゃんとある画曲を、アンサンブルも調整し尽くして、もうこれ以上はないというところまで練習してからやる演奏にはないものだと言う。聴衆の前で演奏するわけだから、失敗すれば何度でも録りなおせるスタジオ録音と比べるれば、緊張感も違うし心地よいライブ感みたいなものも感じるが、それでもジャムセッションやアドリブとは異次元のものらしい。

 

 またある画家の文章にはこうあった。自分は下書きをしない。何度もスケッチをし、構図を決め、よしこれでいい、と納得して下書きをする描きかたもあるが、それは塗り絵をしているようなもので実に退屈だ。だいいち、絵に命がない。だから、下書きは一切しないで、純白のキャンバスにいきなり筆を入れるのだ。それでこそ、絵に命が宿るのだ。と。

 

 やはり、これもライブ感といえるのではないか、と私は思う。

小説は文章を一文字一文字書き綴っていくという作業の積み重ねゆえ、とにかく時間がかかる。時間がかかるだけに、書いている間にいろんなイメージが頭の中を去来する。はじめは色鮮やかだったイメージが、書いている途中で色あせてしまうこともある。そうじゃない。こっちの方がいいんじゃないか?と迷ったりもする。そして、いきなり思いもしないイメージが立ち上がってきたりする事もある。その行きつ戻りつの思考の過程こそライブ感であり、そこに小説の命みたいなものがあるような気がする。しかも、書いていて一番楽しい時間である。

 そうして書きあがった文章を推敲する作業。これはこれ以上の苦痛はない。

というぐらいに辛い。^^;のですが、そんな事はありませんか??みなさん。