「快晴 青空 ひとりきり」その③
8月18日(金)
きのう、クラス会。喧嘩した。
もうクラス会には行けない。いや、もう呼んでもらえないだろ。
なんであんな事になったのかわからん。途中までは上機嫌で飲んでたんだ。加奈子と同じバスケ部の笹口さんに予備校での成績を褒められて。なんでも、従兄弟が英数に行ってるらしく、岩国高校出のあいつなら、いっつも成績上位だぜって言ってたよって。それで良い気分だったんだよな。
ただ、珍しくカラヤンが来てて。あの野郎、大学生になった途端、人が変わったみたいに饒舌になりやがって。ボカァ、全学系オーケストラの指揮を任されちゃってさ、いろいろ大変なんだよ、とか長髪をかきあげて沖浦さんや中原さんなんかに喋り、あの子らも、うわーすごい、ほんとにカラヤンになっちゃったんだ、とか調子良い事言うからむかっ腹が立った。ふいに合唱コンクールの記憶が甦って。
おいカラヤン、わりゃ合唱コンクールんとき爆笑したろうが、人の不幸を何じ
ゃ思うとるんなら。
って絡んでやった。そしたら、ん?なんだ、間抜けな指揮者の坊太郎じゃねえか、まだ生きてたのか?なんて抜かしやがって。それでも、中原さんが、ちょっとそんな言い方したら坊太郎が可愛そうじゃん、って言ってくれたから、まあいいかって許してやったんだ。ヘラヘラ笑ってさ。
そしたらいつのまにか学生運動の話題になってたらしく、過激派の残党が大学に残ってて、10人くらい、ヘルメットにタオルで時々キャンパスでデモってるよ、なんてのが聞こえてきたんだ。へえ、まだそういう人間もいるんだなって感心してたら、学生の分際で革命とか、傲慢だと思わないのかねやつら、身の程をわきまえろってんだよ、政治に口出すんなら自分で稼いでからやれってんだよ、なんてカラヤンが知ったふうな口きくからカッときた。
てめえで稼いどる奴もおらあ、われみとおなクズばっかりじゃなあわ。
自分じゃ普通に言った積もりだったのに、かなりでかい声だったみたいで。みんな、どうしたどうした?って寄ってきて。店の人も様子を見に来て。
俺もそうとう酔ってたんだろうな。
なんだよ坊太郎、浪人がいやになって過激派になっちまったのか?
って鼻で笑いやがって。気がついたらカラヤンの胸ぐら掴んで拳を振り上げてた。もう机はひっくり返るわ、机の上のグラスは落ちて割れるわ。気がついたらカラヤンの顔面が鼻血で真っ赤になってて。
坊太郎、おまえやりすぎだよ。
なんで久しぶりに会ったのに、こうなるの?。
坊太郎、おまえちょっとおかしいぞ。
とか、いろいろ言われて。
俺はなけなしの5千円札をカラヤンの顔面に叩きつけて店を出た。地下道まで全力疾走したら気持ち悪くなって吐いた。俺も鼻を殴られてたみたいで、吐いたゲロに俺の赤い血が垂れてて。
8月19日(土)
昼前に目が覚めた。昨日の事が悪夢みたいだった。暑さの余り?2度寝できず散歩に出た。駅前の藤田書店で「アナーキズム思想史」を見つけ思わず買った。走って帰ってむさぼり読んだ。
各人による各人の支配(ブルードン)
自分にとって自分以外のすべてが虚しいものである
キリスト教、共産主義、国家、法律、財産、愛、自由、平等、正義、
精神、宗教、道徳などが架空の実体性をもって個人の上に君臨して
いる (スティルナー)
自分で自分を所有し、他の何者にも支配されない社会では国家や法律のような
外からの強制はいらない。それ自身の原理によってある種の調和が実現される。
この社会は各人が自分に集中する反逆者となるときはじめて実現する。
全然支配しない政府が一番良い
野生の自由は鉄の良心を鍛え上げる。法律や礼儀作法を強固にして自由を
奪うと良心は窒息する。
理性にもとづくすべての真面目な思索はアナキズムに通じる(トルストイ)
啓蒙的アナキズムは理性を信じ説得と理解の力により、合理的に納得ずくで問
題を解決するのが建前。しかし、それが無理なら解決策は力と力との闘争、存
在する秩序の根本からの破壊しかない。
革命の前衛組織の任務は今の秩序の完全な破壊にある。その後にくる新社会の
建設は民衆の自主的運動に委ねられる。破壊した人々は新社会の支配グループ
になってはいけない。
社会主義のない自由は特権と不正義であり、自由のない社会主義は奴隷制であ
る
自由と社会主義は一体のものだ(バクーニン)
喧嘩した時、誰かが言いやがった。
坊太郎らしくないぞ。
坊太郎らしさって何だ?俺らしさって。
何を言われてもヘラヘラしてるところか?お調子もの?お人好し?馬鹿のくせ に目立ちたがり?もてないくせに女好き?。短気なくせに意気地なし?。そんなの俺じゃねえ。勝手に決めてんじゃねえよ。
8月20日(日)
俺って、自分以外のすべてに支配されてるよな、って思った。成績が良くなったねって褒められ上機嫌になり、過激派浪人か?って馬鹿にされて激高する。島根の真剣さに胸を打たれる。自分以外のいろんなものに振り回されてる。
クラス会。あんなとこ行くべきじゃなかった。
俺には自分がない。だからサングラスにも小馬鹿にされ、津田加奈子には見向きもされない。ただの点取り虫。
あしたは第4回の校内模擬試験だ。
8月21日(月)
なんのために今まで そして今からも
生きているのか わかったような気がします
いいんです 報われぬとも 願いは叶わぬとも
この思いは本当の私だからです
今わたしは 旅立ちます
ひとつの空にむかって 飛び始めるのです
この思いのためなら どんなに苦しいことも
きっとやれるような そんな気がします
そうです歌いたくなくても 言葉に出したくなくても
きっと歌えるのです 心の中で誰かが歌ってるから
今わたしは 旅立ちます
自分の心に向かって 飛び始めるのです
山崎ハコ「飛びます」
俺はこの8月を今日の校内模擬試験のために過ごしてきた。ガリ勉と言われようと、点取り虫と呼ばれようと構わない。とにかく俺は立命館にチャレンジするんだ。俺の全力を挙げてチャレンジする。それで駄目なら諦めもつく。これまでの俺とは決別するんだ。ボンクラの俺はもう終わり。
ハコちゃんに背中を押され、俺は飛んだ。でも、すぐに落っこちた。あんなにやったのに。全然だめ。あそこもここも間違えた。わかってるのにミスをした。自分が嫌になる。
8月23日(木)
7月22日にあった全日本模試の資料とやらが配られた。電車の中でぱらぱらめくった。志望校別成績優秀者ってページ(合格判定Aランクの受験生の名前がある)があった。たしか関大を書いたはずだ、と思って関西大学の欄を見てたら「ヤマシタ ボウタロウ」の文字が飛び込んできた。息がとまるかと思った。何度みかえしても、やっぱり同じだった。間違いなく俺の名前だ。ちょっと待てよ、たしか明治も書いたんだ、と明治の欄を見たら、そこにも俺の名前があった。おいおいおい、じゃあ立命も?いやいやいや、さすがにそれはないっしょ?って立命館の欄を見たら、そこにもあるじゃないの。
茫然自失。一駅くらい、ぼーっと客車の天井で週刊誌の広告が揺れるのを見てた。結局、立命、関学、関大、明治、すべてAランク。現役の時には合格判定はすべからくDかEで、もしかしたらそれ以外はないんじゃないのか?なんて疑っていたくらいだったのに。
目がくらんで、背中に生えた羽で天まで飛んだ。まさに有頂天。
昨日の凹みぶりから一転、こどもみたいなはしゃぎぶりに母親もへんてこな顔してた。
8月24日(金)
昨日に続いて第3回目の校内模擬テストの結果が返ってきた。英語200点中121、国語200点中95点、日本史100点中89点。合計500点中303点。偏差値63。今回は日本史の出来が良かった。苦手の国語がせめて6割取れればなあと思う。
人生山あり谷あり。嫌なことも多いけど、頑張ってればいつかは報われる。この調子でがんばろうぜって気分になってきた。
8月30日(水)
今日、昭和54年度の私大ランキング(英数学館版)ってのが出来たと配布された。共通一次実施を見越して、私大の難易度もこれまでよりぐっと上がってる、らしい。共通一次へのリスクを回避して、国立希望の受験生が私大に流れる傾向にあるのだそうだ。
そのランキングで立命館文学部は偏差値65。日本史は文学部の中でも難易度が高いから67というところか。昨日の偏差値63で喜んでいた気分が吹き飛んだ。あんなんで満足してちゃ駄目なのだ。悲しいがこれが現実。溜息がでる。
9月1一日(金)
9月になったとたんに涼しくなった。
廊下に隣りから預かった虫かごが置いてある。そこから鈴虫の鳴き声が聞こえる。夜寒いので長袖のTシャツに着替えた。
9月2日(土)
模擬試験の結果を返してもらった。たしか6月くらいにやった模試じゃないかと思うのだが、たくさんありすぎて、どの模試だかわからない。
私大は受験生880人。そこで俺は30番。自分の名前が活字になるのはほんと励みになる。この試験、山口県の現役3年生もたくさん受けているようす。資料を見たら、岩国高校関係者の中で俺が2番だった(現役浪人私立文化系志望者の中で)。規模的には小さな模試だが、それにしても去年のことを考えたら夢のようだ。
9月6日(水)
夢を見た。俺は居間で1人テレビを見ていた。チャンネルを変えると島根が出ていた。あれ?島根じゃん、ってテレビに寄ると、島根はいつのまに出てきたのか、隣りにいるサングラスと抱き合ってキスをしてる。濃厚だ。おいおい、何やってんだよって、舌打ちしながらチャンネルを変えたら、例のいかした兄ちゃんが全裸で出てて、なに??って驚いたら、裸の加奈子も出てきて、兄ちゃんは加奈子を抱き寄せるとベットに押し倒した。俺は黙ってテレビを消した。
そりゃ19なんだから、それくらいの事はあるだろさ、って無表情でつぶやく。19の俺は、ひとり、消されたテレビの前に座ってる。
大学に行って勉強したい。自分以外のものには振り回されたくない。自分と闘って自分だけの自分になりたい。それは本当だ。でも愛をむさぼりたい。偽りだろうが不純だろうがかまやしない。まわりに振り回されたい。煽られるままに大酒を食らってやりたい放題やらかしてみたい。それも本音だ。
9月8日(金)
まだまだ日差しが強いから、日向を歩くと汗ばむけど、日陰に入ると途端にひんやりする。空の青さが印象的だった。
週間テスト。国語は漢字で失敗。5割くらいか。日本史は難しかった。
第4回目の校内模擬試験。8月末にあったやつ。結果を返してもらった。3教科で500点中351点。点数は悪くない。むしろ素晴らしい結果だ。試験の直後は間違ったところが目について、もう駄目だってくらい凹んだのに、これまでで一番の結果だった。
夏まではがんばってもがんばっても成果が出なかったのに、最近は、がんばればがんばっただけ結果にでる。点数も偏差値も徐々にあがってきた。でも、成績がよくなるにつれて、点数が上がるにつれて、自分の名前が活字になるたび気持ちが醒めてくる。っていうか初めて予備校のランキングに名前を見つけた時の高揚感はもうない。
もしかして、点数や成績、偏差値と引き替えになんか大事な物をなくしていってるんじゃないのか?なんて気分。秋風が心のすきまを通り抜ける。
人の事を気にする余裕はないが、サングラス林と島根佐々木は一向に成績が上がってこない。私文のランキング1番だった国語でさえ、最近はみかけなくなった。島根との仲はますます深くなってるみたいで、四六時中一緒にいる。
あいつ、立命の日本史大丈夫なんじゃろうか?。
俺はどんどんテストの成績が良くなるが、歴史学の事はわからない。歴史学と司馬遼太郎の違いがわからない。サングラス林は歴史学の事を良く知ってるが、テストの成績は良くない。歴史学の事がわからない俺が日本史学専攻に入って、俺より高い志をもったあいつが入れないなんて事になったら?
そんなことでいいのか?。
9月12日(火)
夢を見た。
入試の前の日だった。そういう設定だった。俺は立教大学を受験することになっていた。そういう設定だった。なんだか予備校の教室、休憩時間のような、ずいぶん煩いところで、必死で日本史の問題集を見返してた。なんだかひどく焦ってた。
目が覚めて、立教じゃねえよ、立命館だよってつぶやいて笑った。
9月18日(月)
汚れちまった悲しみに 今日も小雪がふりかかる
汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる
汚れちまった悲しみに 痛々しくも怖じ気づき
汚れちまった悲しみに なすとこもなく日は暮れる
中原中也
夜中に七星を吸った。
心ゆくまで胸の隅々まで吸ってみた。むせた、そして頭がクラっと揺れた。
紫煙は俺のこころに浸みていった。
思いっきり吸い込んだから、もう白いところなんか残っちゃいない。
汚れちまった悲しみを 煙草と一緒に吸い込んだ
俺はなんでこんなに悲しいんだろう
9月20日(水)
冷たい雨に打たれて 町をさまよったの
もう許してくれたって 良い頃だと思った
なんて歌を口ずさみながら予備校から帰ってきた。今日は一日雨でひどく寒い。秋を越えて一気に冬になりましたってテレビも言ってた。
帰りの広島駅のホームでYMCAに行った奴らと出会った。同じクラスだった森田や村本。えらい真面目になったちゅうじゃ?なんて笑ってた。どこかで飲んでたのか、ひどく酒臭かった。
燕雀安知鴻鵠之志哉
そう言ってやった。やつらポカンとしていた。
9月21日(木)
今度の日曜日、24日は旺文社模試。今はそれに向けて勉強してる。なにしろ旺文社模試は全国規模だから、全国で自分がどのくらいの位置にいるのかがわかって良い。
電車で加奈子に遭遇した日、あのいかした彼氏が言ってたっけ、カナちゃんだったら成績優秀者の欄に名前が出るんじゃない?って。もし加奈子よりも俺の方が成績良くて、成績優秀の欄に俺の名前だけが出てたら加奈子はどう思うだろうか。あのボンクラの坊太郎に負けたって悔しがるだろうか。それとも少しは俺のことを見直してくれるだろうか。
いやいや、そんな事はない。2人して俺なんかよりずっと良い成績で、俺の事を鼻で笑うのが関の山だ。
そんなつまらない事が頭をよぎる。余計な事ばかり考える。
それにしても去年を思い出すと不思議な気分になる。ええ?今日って模擬試験だったっけ?なんて言って同級生に笑われてたあのボンクラ野郎が、今は何日も前から模擬試験を想定して必死で勉強してるなんて。人間、変われば変わるものだと思うが、俺って本当に良い方向に変わってるのかな?どうおもう?津田加奈子さん、君の目にはどう映ってる?
9月24日(日)
旺文社模試。だめだった。悔しいけど、この出来じゃ成績上位者に名前は出ない。
加奈子を見返すために勉強してる訳じゃない。行きたい大学に行くために勉強してるはずなのに、いつのまにか見栄とか虚栄心とか、復讐?とか、そんな気持ちに絡め取られてる。だから、うまくいけば異常にはしゃぐけど、駄目だと虚無的になる。ほんと、俺って自分がないよなって思った。
高野悦子は未熟って言葉をよく使うけど、それって目指す自分の理想がハッキリしてて、自分をその理想と比べてるんだと思う。今の自分は全然それに届いてないから「未熟」。そういうことなんだろう。
俺にはそもそもめざす自分の理想ってやつがない。だから今の自分が未熟なのかなんてわかりようがない。俺って自分がないよなってのは、そういう事なんだろう。
いつだったか、誰でも知ってる鎌倉幕府崩壊の年号を知らなかった林をからかったら、言われた。おまえな、そんなの年表みたら書いてあんだろが、年表に書いてある事いちいち憶えて何になる?そんなの歴史学でも何でもないんだぞ、歴史学ってのはまだ年表に載ってない歴史的事実を明らかにするんだ、って。その時は負け惜しみ言うなよって笑った俺だが、よく考えてみればサングラス林の言うとおりなのかもしれない。
俺は大学に入って歴史を学ぶって威張ってるけど、歴史の何を学ぶのか?全然わかってない。ガキの頃から昔の出来事を知るのが好きだっただけ。それだけで歴史を選んだ。数字アレルギーだから数学、理科系は無理。語学もそれほど好きじゃないしって、いわば消去法で選んだ歴史学なのだ。
あの天才数学者の予言どおりだ。
何がなんでも立命館の日本史に入るぞって山に登り始めた。けっこう高いとこまで登ってきた手応えはあるのだけど、なんだか中腹の森に迷い込んだようで、頂上が見えない。森の中をたった一人でうろうろしてる。
森の中は薄暗い。そして寂しい。
9月27日(水)
第5回目の校内模擬試験。国語が難しかった。がんばってきた漢文が完敗だったのは悔しいが、全体的には5割くらいは取れたように思う。英語も6割。感動も落胆も力みもない。なんだか悟りの境地。明日は日本史だ。
朝は寒い。昼は暑い。朝の電車で長袖に上着を着込んだ人をたくさん見たが、あんな服装じゃ昼間は暑かっただろうにって心配してあげた。
9月29日(金)
俺の心はカオス。
9月22日 週間テスト
9月24日 旺文社模試 早朝六時の電車で広島に
9月26日 本館で4回目の校内模試に自分の名前を見つける。載ってなきゃ困るわ
って奢った感情有り
9月29日 第5回目校内模擬試験
9月30日 模試 日本史
8日間に模擬試験3回。こう連日模擬試験があっちゃカオスになるのも無理はない。もう模擬試験だからといって緊張もしない。力みもない。だから今、入試の本番が来て、はい今から入試ですよって言われても、あぁそうっすかって感じで臨めるかもしれない。そういう意味では有効なカオスかもしれない。
もはや調教とか訓練とか言った方が良いような気もする。
汝 入試、恐るるなかれ いわんや模試をや
汝がカオスは遠にしてかつ大なり
入試 まさしく汝がカオスに値するなり
ああ、これやこれ大学入試 恐るるなかれ
最近、漢文ばっかりやってるからか、ついつい頭の中でもこんな感じで喋ってる事がある。病気だな。
10月1日(日)
入学試験は公平で清廉な世界だ。
世の中ってやつは、不正や依怙贔屓、差別や人権蹂躙なんてのがゴロゴロしてる。のだそうだ。しかし、こと入学試験に限って言えば、極めてクリーンな世界だ。入試問題を知り、対策を立て、準備さえしていけば必ず成果は出る。やれば出来るが、やらねば出来ない。出来ないは自分がやっていないから、なのだ。全部自分の責任。不正も贔屓も差別もない。
もっと言えば、どんな貧乏人であろうと入試で高得点を取れば、東大法学部に入れ、公務員試験に合格すれば高級官僚にだってなれる。カースト制のインドや、貴族・労働者の棲み分けがハッキリしてるイギリスなんかではなかなかそうはいかないらしい。
荒井から電話があった。修道の学園祭があるから来ないか、と誘われた。悪いなあと思いながらも断った。行けば気持ちが緩みそうで怖いのだ。
さっき夢に井町さんが出てきた。
井町さんは模擬テストの資料を手にして廊下を歩いてた。岩国高校のあの廊下だ。俺は急ぎ足で歩いていく井町さんについていく。井町さんが振り返らずに言う。
坊太郎、今度はよくがんばったなあ、学年で四番だぞ、一番とはほんのちょ
っとしか差がない。まあ、あれだけ頑張ったんだ、当然だよな。
夢から醒めても、うれしかった。
いつだったか、夢に出てきた井町さんに、去年みたいに活を入れられたよな。今度は一転してべた褒め。なんだかくすぐったいような気もする。しばらく布団の中でニヤニヤしてた。
10月2日(月)
高知県から矢部くんが来た。今、隣りの部屋で鼾をかいている。いやはや恋愛というのも大変なんだなあって思った。女性とつきあうって事は、たとえ仕事で疲れていようが、はるばる高知から岩国まで会いに来るって事なんだ。
やっぱり俺は無理だわ。とてもじゃないが女とはつきあえない。
でも、もしだよ。もし万が一、今、この真夜中に、加奈子から電話があってさ、どうしても会いたいから広島まで急いで来てって言われたら?。
10月3日(火)
去年英数学館に通ってた元予備校生が遊びに来て言った。大学生活も悪くはないが、予備校時代が一番充実してたと。予備校の担任が自慢げに話していた。
馬鹿か?
と思った。それじゃ一生予備校に通ってろって言いたくなった。予備校なんて必要悪だ。大学に入るためだけにある。アメリカみたいに(って言ってもよくは知らないが)卒業するのは大変だが、入学するなら誰でもできる、なんてシステムなら予備校なんていらないのだ。
予備校で学んでるのは学問じゃない。だって全然クリエイティブじゃない。予備校時代が充実してたって思うのは、箸にも棒にもかからないボンクラが、だんだんテストの点が良くなって、入れそうになかった大学に入れるまでになったからだ。でも、それはゲームみたいなものだ。たとえばオセロゲーム。あのゲームには勝つ方法がある。それさえ知っていれば誰だって勝てる。知らないやつは勝てない。それと似てる。大学入試も同じだと最近思う。本屋に行けば「大学入試傾向と対策」なんて参考書が大量に売られてるように、入試に出される問題には傾向がある。高校で習った事が全部でるわけじゃない。出るところと、出ないところがあるのだ。出題されるところだけわかっていればそれでいい。肝心なのはどこが出るかだ。それを知ってる奴は高得点で成績優秀者って讃えられる。でも天才でも秀才でもない。ただ出される所を知ってて、そこをくり返し訓練してきたってだけの話だ。実に下らない。
どんどん上がる成績。どんどん近づいてくる志望校。でも、成績が上がれば上がるほど志望校が近づけば近づくほど、高揚感は薄れ醒めてくる。
なんでかな?って思ってた。けど、こうやって文章にしてみてわかった。入試はオセロ。オセロが上手くなったってなんの自慢にもならない。
10月6日(金)
週間テスト。いつものように頑張った。
広島駅で元8組の石橋や岡田と出会った。あいつらクラス会に来てなかったから久しぶりだった。
ボンクラ坊太郎が伝書鳩みたいな生活しよるらしいじゃ。
なんてからかってきた。伝書鳩と言われても、最初は何の事だかわからなかったが、要するに家と予備校を往復するだけで、脇目も振らずにガリ勉してると言いたいらしかった。たしかに伝書鳩だ。上手いこと言うなあと感心した。
予備校さぼって、今日もパチンコ。勝った金で飲むビールは最高じゃ、なんて嘯いていた。こいつら凄えなあ、って思った。
お互い自分の人生だ。好きにやれば良い。
ただ俺には真似できない。
10月11日(水)
今日、一階の売店で石川みどりを見かけた。あいつは9月に特別進学クラスに昇格して、俺達のクラスから消えた。
いつも岩崎の現代国語の授業を一番前の席で、かじりつくようにして聞いていた。あいつは成績が良い。4回目の校内模試は私文で5番だった。しかも整った顔立ちをしている。もともと俺は頭の良い女子に弱いのだ。
黄粉パンを買おうと手を出したら、石川も同時で、ああ、いいよいいよって譲ったら、え?ごめんなさい、どうぞぞうぞって石川も言い、しばらく譲りっこしてたら、サングラス林が現れて、じゃ私がもらうわって取ろうとするから、林の手から奪い返して、石川にあげた。石川がくすくす笑ってた。可愛いなあって思った。
ただそれだけのこと。
10月13日(金)
今日、現代国語の岩崎が言ってた。
愛をアイと読む人が多いが、そうではない。愛しみ(カナシミ)なのだ。思
う人を見ていれば胸が苦しくなり、そして目から涙があふれる。その時、人
は愛しい、とつぶやく。
岩崎の授業は良いんだよな。試験対策ももちろんだが、文学史や出題された小説、詩の解説と称して語られる文学論が魅力的なのだ。今日の言葉も胸に響いた。
今、昔の日記帳から津田加奈子の写真を取り出してみた。修学旅行の時の写真。川口湖そばの駐車場。富士山をバックに他の子と笑ってる。業者が撮った一枚をこっそり買った。写真の中の加奈子は満面の笑顔だが、昔みたいに愛しみは感じない。目を閉じて浮かんでくる石川みどりの方が生々しい。
いや、正直に書こう。
もう誰でも良いのだ。加奈子でも石川でも。慰めが欲しい。受験勉強なんか放り出したい。赤本なんか灯油ぶっかけて燃やしてやろうかって気分になるが、その瞬間、来春の惨めさがリアルに迫ってきて震え上がる。なんて小さいんだろう。岡田や石橋みたいに予備校生のくせに遊び回れる剛胆さがあればなあ、って思う。あまりに自分がちっぽけで切なくなる。
あんなに冷たくされた加奈子を今でも女々しく思ってる。会いたい。抱きたい。愛でなくてもいい。遊びでも何でも良いから相手をして欲しい。
岩崎があんな事言うから、おかしくなっちゃったよ。
空が泣いたら雨になる 山が泣いたら水が出る
俺が泣いてもなんにも出ない
意地が涙を
泣いて 泣いてたまるかよ
通せんぼ
10月17日(火)
予備校から帰り岩国駅に着いたらもうすっかり暗くなっていた。6時半。寒くはなかったが、日が短くなってきた。
俺は女を知らない。セックスしたことがないってだけじゃない。女の子が何を考えてるのか知らないのだ。母親や姉は永い事一緒に暮らしてるし、一番近しい女性って事になるけど、その2人でさえ、実際何を考えてるのかはわからない。自分にしたって、一緒に暮らしてるけど、この日記に書いてるような事をペラペラ喋ってる訳じゃない。当たり障りのない上っ面な事しか喋っていない。家族でさえわからないんだから、ましてや他人は無理だ。津田加奈子は俺の人生では唯一無二の存在だが、あいつがどんな事に興味を持ち、何に惹かれ、何に憧れてるのかなんて一切知らない。それなのに加奈子の事を愛おしく思っている。馬鹿な事だ。幻想。妄想。思いこみ。
その点、高野悦子は違う。あの人の日記に書かれていた事はあの人の心そのものなのだ。誰にも話さない本心が赤裸々に書かれている。
高野悦子は俺が「知ってる」唯一の女性なのだ。だからあんなにも惹かれるのだと、今日、やっとわかった。
毎日鈴木の事ばかり考えてる。鈴木と唇をあわせたり力強く抱き合ったり、
やさしく胸(このちっちゃな)をさわったり、私は鈴木のやせた体やくちび
るを愛撫したり、シンボルであるオチンチンを子供のように手でさわってみ
たり、常に鈴木と肉体関係をもちたいと願っている。
1969年4月22日(火)
あなたと二日の休日をすごしたい。
一日目。夜のネオンが寂しくつつむ酒場の狭い路地であなたを待つ。私の体
をアルコールでずぶ濡れに洗い流し、私の醜さと美しさと、あらゆるものを
アルコールで溶かし去り、ただあなたの安らかな寝息のそばで眠る。
二日目。疲れた体をおこして、すっかり陽の高くなった街に出て喫茶店に入
る。煙草のかほそい、むなしい煙のゆらめきを眺めながら、ベートーベンの
悲愴」とあなたの好きなブラームスのピアノ協奏曲第一番、それに私の好き
なジャズをきく。そして最後の別れとしてマハリャ・ジャクソンの力強いゴ
ズペルソングをきく。
その夜、再びあなたと安宿におちつこう。そして静かに狂おしく、あなたの
突起物から流れ出るどろどろの粘液を、私のあらゆる部分になすりつけよう。
血とくその混沌の中を裸足で歩いていくように、あなたの黒い粘液を私にな
すりつけよう。そして、次の朝、静かに言葉をかわすこともなく別れよう。
それから私は原始の森にある湖をさがしに出かけよう。そこに小舟を浮かべ
て静かに眠るため。
6月22日
加奈子もこんな事を考えたりするのだろうか。あの純粋で可憐な高野さんでさえ、そうなんだから、と思うと、真夜中の窓から飛び出して、どこまでも全速力で駆け出したい気持ちになる。わあーーっと大声で叫びながら。
10月18日(水)
春にあった連合模試ってやつをやってみた。英語。小一時間でできたけど答え合わせしてみたら73点だった。たしか、春にやったときは30点だったと思う。半年で倍になった。でもあの頃の自分が馬鹿だった訳じゃない、ただ出るところが解ってなかっただけ。倍も偉くなった訳じゃない。ただ出るところを教えてもらっただけ。そういうことなのだ。
10月26日(木)
この日曜には全日本模試があった。英語は最悪だ、って焦ったが、そうでもなかった。逆に期待の国語が駄目。結果は国語55、英語58、日本史78、合計191。
一昨日、第5回の校内模試の結果が返ってきた。英語110、国語100(英国は200点満点)日本史55。合計265。ランキング外。20位以内に入れなかった。
10月27日(金)
週間テスト。
この前の旺文社模試が帰ってきた。英語72、国語69、日本史80。合計221(偏差値73)成績上位者にも名前が載った。加奈子の名前はなかった。彼氏の名前、それは知らないからわからない。
11月9日(水)
夕食後、居間で姉と母親が静かな言い合いをしていた。姉は仕事をやめて高知に行く、と言い、母親は結婚してもええけど、ものには順序言うものがある、と答える。それはわかっとるけど、このまま会えんようになる思うたらたまらんのよ、と泣き出し、母はもうちいと辛抱しんさい、と慰め。もうちいとってどんくらい?って姉は鼻をすすり、まあ坊太郎の片がついたら、と口を濁した。
俺は台所のところでそれを盗み聞きした。
あぁあって思った。
11月21日(火)
6回目、最後の校内模擬試験の結果発表。ランキングの下のほうを見たら名前がなかった。あらら?と思ったら9番だった。
大学入試ゲームもだいぶ板についてきた。まだまだミスはあるが、ゲームにミスはつきもの。将棋の達人でさえ、うっかりミス手を指したばっかりに攻め込まれ負けてしまう事がある。
このまま訓練を続けていけば良い。きっと俺は志望校に入れるだろう。
来年の2月、彼はきっと合格通知を受け取る。天気は快晴。
空はどこまでも青く澄んでいるが、彼はひとり。
でも構わない。
彼は知り合いのいない京都に行き、そこに住む。
誰もしらないその街で新しい彼になる。
立命館大学文学部日本史の彼はシアンクレールに行く。
窓際の席に座る。
アバンギャルドなあの曲をリクエストする。
その曲がかかるのを待ちながら窓の外を仰ぎ見るだろう。
窓の外は快晴。
雲ひとつない青空。
多分、そうだ。