この本は1970年代にベストセラーになった本で、いまだにいろんな年代の人に読まれています。
でも、「学園紛争のさなか、恋に破れた女子学生が将来を悲観して自死した記録」ではありません。
今夏、久しぶりに読んでみて、そう思いました。
今回はそのことについて述べてみようと思います。
高野悦子さんはお金もちの家のお嬢さんです。
日記は、1969年、高野さんが大学三年生になる年の1月から始まりますが、その年のお正月を高野さん一家はスキー場近くの温泉旅館で過ごしています。あの当時、お正月を温泉旅館で過ごす家庭なんて、そう多くはなかったはずです。実際、高野さんのお父さんは、県庁定年後、地元の町長をつとめておられます。地元の名士だった訳ですね。これが実は大切なポイントなのです。
大学では前年の12月に起こった「立命館学園新聞社襲撃事件」に、学生寮の自治問題、学費値上げ反対などが絡み学園紛争が起こります。不誠実な対応しかしない大学当局に抗議する学生の一部(全共闘)は中川会館(管理棟)をバリケード封鎖し、それを解除しようとする民青+大学当局と激しく対立するようになります。
これまで2年間一緒に勉強してきた学生仲間が、二つに別れて投石したり、
ゲバ棒で殴り合ったりするのです。みなさんだったら どうしますか?
はじめ高野さんは傍観者です。なんとかしなくちゃ、このままじゃ学園がめちゃくちゃになってしまう、と焦るものの、何が正しくて、どう行動したら良いのかわからない。わからないから必死で考えます。本を読みあさり、配られるビラを読み、知り合いと話し合い考えます。
だけど、紛争は傍観者を許しません。
「君はどっち側なんだ?どっちの味方なんだ?はっきりしろ」と迫られます。
ある日、バリケードの中に入り全共闘の学生と一晩過ごす事で高野さんは悟ります。そうだ、わからなくても良いんだ。とにかく行動する事が大切なんだ。行動することで分かってくる事だってある。
高野さんは全共闘の学生として学園紛争を闘うことになります。
高野さんはアルバイトをはじめます。経済的に自立したい。親の仕送りで闘争なんてありえない。そう思って働きはじめるのです。京都国際ホテルのレストラン。そこでウェイトレスとして働きます。
高野さんはアナーキストになりたいと思っています。そのためには自分のブルジョワ性を否定しなくてはいけません。高野さんは内なる闘いを始めます。帰省して家族に決別を告げ、そしてめがねをかけ、たばこを吸って、酒を飲み、田川治子と名乗ります。
夕方までレストランで働き、バイトが終わるとヤッケにヘルメットの闘争スタイルに着替え、バリケードに入っていく、という二重生活を始めます。
そこで高野さんは恋をします。レストランの主任さん、そして同年代のコックさん。とりわけコックさんに心を奪われます。その彼とつきあい、そして身体も許します。ところが、その彼は高野さんが身体を許した途端、高野さんから離れて行きます。コックさんの彼は、アナーキストが理想だと言う大学生よりも、可愛くおとなしいお嬢さんが好みだったのです。そんなくだらない男は自分から願い下げだ。高野さんは、彼と決別してアナーキストとしての自分を貫き通します。そして、自分の命にも終止符を打ってしまいます。
それが日記の記述です。しかし、それは少し事実と違っています。
「二十歳の原点」を研究しているサイトの記事にこうありました。
高野さんが自死する一週間前、高野さんは母親と会っています。家族に決別を告げ、実家を飛び出した娘を案じて栃木から京都まで来ていたのです。そこで母親はひどく驚くのです。革命戦士になったとばかり思っていた娘がいざ会ってみたら、高校生の頃の可愛い娘、そのままだった?。高野さんは母親を行きつけのレストランにつれていき、食事の帰り洋服屋の店先に飾ってあったワンピースを母親にねだります。
「ねえねえお母さん、あのワンピース買ってよ」と。
母親はよろこんで薄茶色のワンピースとかかとの高い靴を買ってやった、とインタビューに答えています。
高野さんはなぜ、そんなものをねだったのでしょうか?。
それはコックさんの彼に会いにいくためだったようです。
実際、ホテルの同僚の話によると、逢いにきた彼女はいつもとは違うワンピースだった、と証言しています。自分だってもとはお嬢さんなのだ。その気になって着飾れば、つれない彼だってきっと振り向いてくれるはず。しかし、彼は会おうとしなかったのです。その日、高野さんは睡眠薬を大量に飲み、その翌日の深夜、山陰線の貨物列車に飛び込むのですが、そのとき着ていたのは、まさにそのワンピースとかかとの高い靴だったそうです。
この事はまったく日記には書かれていません。母親の事もワンピースの事も一切触れられていないのです。アナーキストを目指していた高野さんにとって、自分のブルジョワ性を全否定しようとしていた高野さんにとって、オシャレなワンピースと洒落た靴を履を身につけるという事はどういう事なのか?
敗北です。
内なる闘争への全面的な敗北。
アナーキスト失格です。
自分のプライドをかなぐり捨てて彼に媚びてしまったのです。
そんな情けない事、日記にかけるわけがありません。
高野さんには、もう自死しか残されていなかった。そういう事なんだと思います。
だから
失恋が原因で自殺した、のではないのです。彼に振られた事が悔しかったんじゃないのです。
自分に負けたことが悔しいんです。恋のために自分を裏切った事が死ぬほど悲しかったんです。
これは似ているけど、全くちがいます。全然次元が違うことなのです。
実は私も立命館大学文学部日本史学専攻の学生でした。高野さんは10年先輩にあたります。
立命館なんかに来なければ、お金持ちのお嬢さんとして幸せに暮らせたろうに、と言った人もいました。ほんとにそうなんでしょうか?。お金持ちのお嬢さんとして一生を送ることがそんなに良いことなんでしょうか?私はむしろその逆だと思うんです。
お金持ちのお嬢さんだった高野さんが、革命戦士として生きようとしたのです。家族と縁を切り、実家の援助も拒否して、これまでのすべてをかなぐり捨てて労働者大衆の一人として生きようとしたんです。すごい事じゃないですか?世間の常識とか道徳とか、ろくでもないものが作った偽りの自分を脱ぎ捨てて、本当の自分と向き合おうとしたんです。それは立命館に来たからこそなんです。立命館にはそういう力があったって事なんです。
世の中の矛盾に目を向け、その矛盾に自分との関わりを感じ、それを自分の事としてとらえ
自分の闘いに変えていく。内なる闘いに挑み、自分で自分に抗って、新しい自分をみつけようと必死になった。歯を食いしばって自分と闘ってる姿にこそ読者は心を打たれるんだと思います。
だけど、高野さんには常に葛藤がつきまといます。
ボカァ、がんばりますよ、と力みかえったかと思うと、サミシイヨオ、と弱音を吐きます。
あんな奴どうでもいい、なんて言いながら、彼と抱き合いキスしたいのだ、と自白します。
だから
自分はアナーキストだと言いつつ、大好きな彼のためにプライドを投げ捨ててしまった高野さんも
私は大好きです。実に人間らしい。
日記の記述どおり、冷静に彼に別れを告げ、完全無欠のアナーキストになっていたら、ここまで読者を引きつける事はなかったと思います。
2022年。夏。自分の浪人時代の日記を素材に、小説を書き始めました。その日記に「二十歳の原点」が出てきました。久しぶりに「二十歳の原点」を読み返してみて、これを軸にすえようと思いました。
自分の浪人時代もレベルは違いこそすれ、それまでのぐうたらな自分との内なる闘いだったな、と
思ったのです。その闘いを経て生まれる新しい自分は、大学という新しい世界に旅立って行く。
そういう小説にしようと思ったのです。
書き始めて三ヶ月。かなりの長編になってしまいました。
これから構成を練り直し、余分を削り、とさらに煮詰めていきます。
できあがったらこのサイトに掲載する予定でいます。