父は国鉄職員だ。岩国の実家は岩国駅の構内にある、いわゆる国鉄の官舎だ。戦後すぐに建てられた独身者用の掘っ建小屋を改修したもので、老朽化が激しい上、入り口を開けると二メートル先には貨物操作用の線路が走っているという、これ以上国鉄らしい官舎はこの世に存在しないと言えるほどの官舎だ。
その実家に夕方着いたが、母親はあら?明日帰るんじゃなかったん等と呆れた声を上げ、あんたの豚カツあげちょらんよなどと笑うもので、試験が終わったらすぐ帰ってこいなんて言ったのはあんただろうがとさんざん文句を言うと、居間のちゃぶ台ですでに揚がっていた豚カツにかぶりついていた父親は、試験ができんかったんかと、息子の苛ついた口調からすべてはお見通しだみたいな事を言う。苛ついて父親を睨むと、父親が身体をかがめて豚カツにかぶりつくたびに禿げて薄くなった脳天が見えた。ザビエルのとんすらを思い出し、腹立たしさも忘れて吹き出しそうになったが、親父の禿頭は微妙に円形がいびつで、楕円ともなんとも形容のしようのない形なのを見て、やはりザビーの野郎、剃ってたんだなどと思ったりした。しかし、それはそれとして、確かに試験ができなかったのは事実だが、そのことで苛ついているわけではないのに勝手に試験の結果と苛ついた態度を結びつけてほしくないねと再び不機嫌になり、父親に返事もせず風呂に入った。
湯船に鼻まで浸かりながら、つらつら試験問題を思い返してみる。教科専門なんて、歴史はまだいいとしても、地理や公民はこてんぱん。教職教養に至っては、問題すらろくに憶えていない始末。山口は間違いなく落ちた。一次試験敗退決定だと思った。
風呂から出ると母親が豚カツを揚げてくれており、なんだあるんならあんなこと言う事ないじゃないかなどと思いながらも揚げたてを無言でほうばった。母親も父親も試験の出来が気になるようで、もう食事はすんでいるのにも拘わらず席を離れず、一人豚カツにかぶりつく息子の様子を見つめている。さかんに話題をそっちに振ろうとするのだが、帰った時の不機嫌な態度から、聞くに聞けずといった感じで、山口は蒸し暑かっただろうとか、所くんは元気だったかとか当たり障りのない事を口にしながら核心に迫ろうとチャンスを伺ってくる。試験が出来なくてなんて話だせば、試験不出来の原因が寝不足にあってと言わざるを得ず、そうなると、寝不足ちゅうて、あんた何しよったん?という事になる。かといって、その原因が所と彼女のセックスを気にして徹夜して見張った事にあるなどと言えるわけもない。緊張をほぐす積もりで飲みだしたのはいいが、夜遅くまで話し込んでしまってとか適当に言い繕えば言い繕ったで、自分の一生を決める試験の前夜に飲み明かす馬鹿がどこにいるのとか、そういう類の小言を言い出すに決まっている。そんなこんなを勘案すればここは黙ってやり過ごすしかないと思い、食べる振りをしながら生返事だけを繰り返した。
食べ終わりるとさっさと席をたって部屋に行こうとすると、あんた、もう寝るん?と母親が不満げな声を上げる。それは、こんなに試験の様子を気にしているのだから、席を立つにしても、できたできなかった、受かりそう、嫌無理かもなくらいの事は話してから席を立つべきだろうと言いたげな感じだ。本来ならその不満気なニュアンスに引っかかり、舌打ちのひとつもしてみせるところだが、どういうわけか「寝る」という言葉に過剰に反応してしまい、喉に唾を詰まらせた。激しくむせかえり、あやうく食べたばかりの豚カツを戻しそうになったが、寝るという言葉に反応したことを悟られるのが気まずく、寝ちゃいけんのか、と照れ隠しの悪態をついた。
以前入っていたサークルで知り合った先輩は、去年京都府の中学校教員に採用されたのだが、その先輩は、俺も教職目指してるんすよと話した時、教職目指すんなら、絶対新卒合格目指さなあかん、せやないと一生臨時採用になってまうでと語気を強めた。
臨時採用ちゅうのんはほんまあかんで。採用試験に落ちてもな、一次さえ通っとったら一年契約で教壇に立つことができるんや。これが臨時採用っちゅうやつやけど、この臨時採用ちゅうのんが悪魔みたいなおとろしい制度で、うっかり臨時採用に手出したらとんでもないことになるんや。名前は臨時採用やけど、しょうみ正規職員と一緒や。ほらもぉこき使われるっちゅうもんやない。クラス担任はさせられるわ部活指導はさせられるわで、一日終わったらごっつい疲れてもうて受験勉強どころの騒ぎやないがな。新採用の教員にはちゃあんと保障されとる研修も臨時採用にはない。ほな、臨時採用中の勤務評定が採用試験のプラス材料になるかというと、そういうこともない。不勉強のまんま試験受け続け、毎年落ち続ける。教育委員会のほうもなあ、都合よう人員不足の学校に廻せるベテランの臨時採用を確保しときたいんやろ。そんなこんなで、結局一生飼い殺しになるわけや。教育現場に行ったらなあ、そういう臨時採用のまま年を取った先輩がぎょうさんおんねん。
山口県は不合格。二週間後の広島県の採用試験をしくじったら後がない。飼い殺しを覚悟の上で臨時採用に応じるか、さもなくば所のように留年、もしくは一旦卒業して就職浪人するかしかないが、大学受験で一年浪人している身としては、留年にしろ就職浪人にしろもう一年遊ばせてくれなど口が裂けても言えるものではない。となるとしくじったら一生飼い殺しの臨時採用しかないということになる。これはえらいことだ。
大学が出している去年の採用試験報告書を見ると、広島は一般教養が多少できなくても教科専門が完璧なら合格するとあった。試験まであと二週間。教科専門。とりわけ苦手な地理や政治経済を中心に遮二無二やるしかないと思った。
手始めにサッカーパンツとサッカーボールを購入することにした。なんで採用試験合格とサッカーパンツが関係あるのかなんて言われそうだが、なんとなく勉強に集中するためには必要なような気がしたのだ。というか、いくら遮二無二勉強するとはいえ、勉強だけではうまくいかないような気がした。昼間勉強して、夕方、近くの小学校のグランドでサッカーボールを蹴ろう。そこで気持ちのいい汗を流し、夜の勉強に備えればいい。ボールもサッカーパンツも高校時代から使っているやつがあるのだが、生憎どちらも京都の下宿に置いてきた。やはりここは購入するしかない。
近所の商店街に、中学生の頃から馴染みのスポーツ店を訪ね白のサッカーパンツを四千円、ボールを五千円で手に入れる。結構な出費だが合格の為なら致し方ない。一万円足らず合格できるのなら安いものだ。店の奥のテレビは甲子園山口県大会の準決勝を中継していたが、まさに最後のバッターが空振り三振でゲームセットしたところだった。店の親父さんは、やれやれ今年も駄目か、地元が出にゃあ甲子園ちゅうても、ひとつもおもしろうないけえのおとぼやく。良く聞くと教育実習でお世話になった高校の試合で、そういえば教育実習の時担当したクラスに野球部のキャプテンだった遠藤くんてのがいたが、どうだったんだろうなんて気になって、網に入ったボールとサッカーパンツの袋を胸に抱きながらしばらく見入っていたら、スタンドの応援団に一列にならんで挨拶をする部員の端っこで遠藤君が号泣しているのがアップになった。
スポーツ店からの帰り、空き店舗らしい店のシャッターに張り出された張り紙を見てギョッとした。一瞬、自分がなぜギョッとするのかさっぱりわからなかったが、近寄ってじっくり見てみて訳がわかった。向こう三カ月休業させていただきます、尚本店は平常通り営業させていただきますという文章に続いて地図があり、その下に磯部服飾店と大きく揮毫してある。五連のアーチ橋で有名な地元の観光地の近くに本店があるのは、教育実習の時に何度か一緒に帰った事があったから知っていたが、よく見ると地図に示された本店というのは、まさにそのお店の事で、この店は磯部さんの家の支店だったんだと思った。この洋服屋なら幼い頃からよく知っている。へえ、ここってあの磯部さんのとこのだったんだ。シャッターの前で看板を見上げてそうつぶやいた。
網に入ったボールを手に持ち、ぶら下がったそのボールを歩くリズムに合わせて何度も右足左足のインステップに当てながら帰ったが、元町公園の近くに来たときフジモに会った。中学卒業後は数回しか会っておらず、随分背が高くなっており人違いかと思ったが、フジモと声をかけると、ちゃんと振り向いた。フジモこと藤本は中学の同級生で、中学時分は所と自分と三人でよく遊んだ仲だが、家業が左官屋だったフジモは、全日制に進学せず定時制に通いながら家業の左官屋を手伝う道を選んだのだ。仕事面白いかと聞くと、面白いわけないじゃ。ほいじゃが他にええ口もないし、しょうがないっちゃと笑う。まだ学生でのほほんとし、半人前な自分に対し、こいつはもう七年も修行を積んだ立派な職人なわけで、すっかり自立している姿がまぶしかった。
まあがんばれいの。わしも早う一人前になるけえと言って別れた。
次の日の朝、朝食を食べながら父と母が官舎取り壊しの話をしていた。なんでも駅当局は老朽化したこの官舎をできるだけ早い時期に壊したいらしい。ぶっ壊してなんだか別の建物を建てる計画だという。随分まえから持ち上がっていた話のようで、自分が京都に行っている間、両親の間ではもう何度も繰り返されてきた話のようだったのだが、自分は初めて耳にする事でもあり随分驚いた。小学校三年の時に越してきてもう十三年も住み続けているのだ、持ち家ではなく仮住まいなわけだから、いつかはどこかへ引っ越さなければならないことはわかってはいるが、十三年分の愛着はあるわけだし、唐突に壊されるなんて聞かされて動揺するなと言う方が無理な話だ。父親は定年まであと三年で、できれば定年までいさせて欲しいと常々駅当局には伝えてあるとの事だったが、駅当局はあまりいい顔をしないらしく、事を荒立てるのもあれだし、どうでも街の西にある四階建ての新しい鉄道官舎に移らにゃあいけんかのおと顔を曇らせた。
父親が仕事に出た後も、母親としばらくその話をしていたのだが、気分を取り直し試験勉強を始めるぞと自室で机に着いた時、玄関を開ける音がし、あらあ泉くん久しぶりじゃねえ、上がりんさい部屋におるけえとの母親の声がし、よおと泉が顔を覗かせた。
高校時代、この家はたまり場だった。浪人時代も多少その名残があったが、なにせ駅の構内なもんで、駅まで自転車で来た友人達はお前んとこ置いてええかと言うし、うちもうちで、置いてけ置いてけと奨励するしで、いつのまにか自転車置き場のようになってしまった。帰れば帰ったで若い盛りだからやれ腹が減っただの、喉が渇いただの言うが、そういう子に飲ませたり食わせたりするのがうちの母親の楽しみで、やれあんパンだ牛乳だ、夏の盛りにはスイカ、冬の寒い日にはぜんざいだ焼き芋だと作って用意しているもんで、ついつい部屋にあがり飲めや食えやってことになる。それが故のたまり場なのだが、この泉にしても高校時代の友人でサッカー部仲間なわけで、駅に来れば特に用がなくともついつい立ち寄るのは、高校時代からの習慣みたいな感じだったのだ。だからこうして突然家に上がってこられても別段驚いたり戸惑ったりするような事は全くなかったのだが、ただ、昨日の今日でせっかく勉強するぞと気合いを入れたところなのにと、出鼻を挫かれる思いだったが、そうだそうだ所の話があったんだったと思い直し泉を招き入れた。
泉なら事の事情も大方は把握しているだろうし、この際自分の胸の内に秘めておいた全部をぶちまけて楽になろうと思った。まあ座れ、じっくり語ろうじゃないかと泉を促したが、泉は泉で別の事の方が気になっていたようで、お前どうじゃったといきなり採用試験の話題に入る。教職教養難しかったじゃろうと試験問題の話に始まって、お前学生証落としたじゃろとか、試験が終わった後えっと探したのにぜんぜんみつからんかったわとか余談に至るまで採用試験の話が続く。
じつはこの泉も山大の教育学部の学生で、かつて所が棲んでいた学生下宿にいるわけで、今回の採用試験も受験しており、試験の結果が気になるのは自分も同じだ。もちろんその話もしたいとは思ったが、今更ぐだぐだ言ったところで出来なかった問題はできなかったわけだし、不合格はまず間違いないのだから、そんなことよりも何故自分が不合格に追い込まれたのかという原因の方を聞いてくれよと思い、ところで所とミカの事なんじゃがのおと水を向けると、えっなんで知っちょるんじゃと泉は素っ頓狂な声を上げる。泉は所と同じ教育学部だが、中学校の数学科教員養成課程の学生で、根っからの理科系。大きめの銀縁めがねをかけているところなどまさに理科系という感じなのだが、その外見そのままに性格も感情に流されるところがなく、いつも冷静なのだが、その時上げた素っ頓狂な声は泉にしてはひどく珍しかった。
じつはかくかくしかじかと事のあらましを話してきかせると、顔をしかめて、あいつやばいっちゃと泉は言う。あの女だけはやめちょけちゅうちょるのい、とち狂っちょるけえのおと憐れみのような、同情するような、呆れるような声を出す。なんでも泉の言うには、「彼女と同棲」なんていう単純で幸福なものではなく、相当複雑な事情があるらしい。
ミカちゅう子にはもともと彼氏がおったんじゃが、普段からなんじゃかんじゃつまらん事で喧嘩しちゃあ仲直りを繰り返す阿呆なカップルじゃったんじゃ。所はその彼氏ともミカとも同じサークルじゃけえ知り合いなんじゃが、所は前からミカが好きじゃったみたいでから、なんであんなちゃらちゃらした女が好きなんかのおっちゅうて皆言うんじゃが、まあこればっかりは好き好きじゃけえのお、どうしようもないが、所の好きは中学生みたいに純粋に好きなわけで、気持ちに濁りがない。じゃけえ余計にややこしい。ミカも当然所の気持ちには気がつくんじゃが、好きじゃないんならあっさり冷とう接しちゃりゃあ諦めもつこうに、えっと好きでもないくせに彼氏がおるけえあれじゃけど気持ちは嬉しいよっちゅう距離感で接しちょったところへ、よしゃあええのにこの春その彼氏とミカが大喧嘩じゃ。今度という今度は許せん、もう別れるちゅうて、所に擦り寄ってきた。ミカっちゅう子はそういう子でから、都合よう立ち回って周りを巻き込むわけよ。ミカのそういうところは有名でから、大概の者は皆知っちょったけえ下宿の皆も、あいつはやめとけっちゅうちょるのい、当の所は本来来るべきものが、来るべきところに来たちゅうてテンパっちょる。一緒に棲みたい言われて有頂天になる。でも金はない。しょうがないけえ就職活動に金が要るちゅうて親を騙して金を送らせて借りたんがあの小綺麗なアパートっちゃ。
要するに三角関係なのだという。確かに複雑だ。しかし、自分にもハンバーグを作ってくれるほどで、あれこれ身の回りの世話も焼いていたし、そんなに悪い子でもないような気もするし、それはそれでうらやましいけどなというような感想を伝えると、馬鹿じゃのお、同棲いうてものお、あいつは抱かせんらしいでと声を潜める。一緒に寝るけどキスもさせないらしい。所に問いただしてもはっきり、そうだとは認めないが、そもそも自分は、ミカがあの男を見限って自分の方に来てくれただけで充分幸せじゃけえ、それでええんじゃみたいな事を言うし、大切なのは心と心がつながっちょるかどうかっちゃとか言うて澄ましてるんだから、間違いないだろう。そういう女なんだと泉は言う。多分、喧嘩した彼氏に当てつけでああいう事してるだけで、そのうち所を捨ててあの彼氏とよりをもどすのは目に見えている。それが下宿のみんなの一致した見方で、だからやめとけと何度諭しても、所は聞く耳を持たないのだと言う。
おかげであいつは採用試験も投げだして、とうとう留年っちゃ。自分の我が儘で所を振り回してから、一人の青年の将来をぶち壊しにしちょるっちゅうのに、あの女は、いっそも気にしちょらん。
採用試験の前日、山口駅から所の車であのアパートに向かうおり、なんでこっちなんや、どうなっちょるんやと聞く自分に、所は、「ちょっと」とあいつお得意の科白を口にした。それは、そがあな事言えるかいやと言う意味なのだが、たしかに、突然現れた俺に、いくら中学時代からの幼なじみであろうと、一言で説明できるような事情ではなく、もし自分が所でも、「ちょっとの」と笑うしかなかったかもななんて思ったりした。所とミカって子の間の微妙な空気のわけも、なんとなく納得できた。
母親の作ってくれたインスタントラーメンを二人で食ったあと、いやがる泉を強引に連れ出し小学校でおろしたてのボールを蹴った。泉は帰省の途中だしスラックスにワイシャツネクタイという就職活動スタイルだしとぐずぐずいっていたが、パジャマ代わりに持って帰ったジャージとTシャツを投げ、着替えりゃあえかろうと言うと相変わらず強引じゃのおと渋々着替えた。自分とちがって背が高く一八〇センチはある泉なわけで、貸してやったジャージは寸足らずで少々不格好だったが、それ以上に炎天下で殺人的な日差しの中、どうして今更サッカーなんじゃとか、こういうのはかえってストレスが溜まるとか、紫外線の恐ろしさがわかってない奴が多すぎるんだよなとか、早々に切り上げようと屁理屈を並べる姿のほうがより不格好だった。なんでも久しぶりに運動したとかでほんの小一時間ボールを蹴っただけなのに、泉はしなびたキュウリのようになって帰っていった。
夕飯を食べ終わってのんびりテレビを見ていたら大学で同じゼミの東田から電話があった。8月10日の件だ。広島県の採用試験を受けるのに、うちに泊まって宿泊費を節約したいから家の人に聞いてみてくれと帰省するまえに話を聞いていたのだが、その確認だった。
この東田という男、東京に一人旅をしたおりに帰りの電車代がなくなり、一計を案じて同じゼミで東京出身の小谷というやつの実家をいきなり訪ね、実は小谷くんの学友でしてと上がり込み、その父親に気に入られて一晩飲み明かした上に、電車賃まで借りたという実績の持ち主だ。
吉川も一緒に来るという。無論両親には山口の試験に出る前日、すでに話をして了解してもらっている。もともとたまり場なのだし、遠慮はいらないし誰でも大歓迎。いきなり訪ねてきても金は貸せないだろうが泊めてあげるくらいの事はするだろうと思った。その事を伝えると、試験の前日行くけど、時間はその時はまた電話してから行くからと、行き当たりばったりの得意な東田にしては用意周到な事を言っていた。
受話器を置いて居間に戻ろうとした時、再び電話が鳴って、もしかして磯部さんかなと一瞬期待したりしたが、取ると岡山にいる姉だった。にぎやかな声が受話器の向こうから聞こえてきて、どこか外からかけてきたのだとわかったが、いつもな脳天気な姉がなにやら暗い声で、しかもどこか慌てた様子で母か父を出せと言う。そのままを伝え、父が電話に出たが、一声目の、おお、元気にしちょるんかという高いトーンの声はすぐに、低く淀んだような暗いトーンに変わり、うんうんという相づちだけを繰り返し、初めはそばに立って様子を見ていた自分も、なんとなくいたたまれなくなって居間に戻った。しばらくして父は戻ってきたが、何?どうしたんねという母の問いに、しばらく唸るだけで何も言わなかった。なんでも姉の嫁ぎ先の実家の義父が危篤だという。とにかく危篤だから急いで帰省しろとだけ連絡があったので今から電車に乗るところなのだが、なにしろ詳しい様子がまったく分からないから、またわかったら連絡するからと言っていたらしい。
姉は今は岡山に棲んでいるが、嫁ぎ先の実家は九州も宮崎県と鹿児島県の県境にあり、かなり時間がかかる。しかし、実家の義父さんは元気な人で病気を患っていることなど聞いていなかったし、父も母もかなり驚いていた。しかも、こっちにまで緊急連絡してくるということは、危篤は危篤でも、覚悟をしておいたほうがいいくらいの危篤なのだと思われ、そうなると明日かあさってかに九州まで行かねばならないな、などと二人は話し合っていた。
翌日、午後雨だという予報だったので、予定を変えて午前中トレーニングをすることにした。小学校に近づくとプールからははしゃぎ回る小学生の歓声が響いていた。いつもトレーニングする時間は夕方で小学校のグランドには誰もおらず、気兼ねなくトレーニングに専念出来たのだが、考えてみれば午前中は夏休み中のプールがある。プールの時間に一人グランドでトレーニングなんか始めたら、とんだ見せ物になってしまうなあと逡巡した。とはいえせっかく来たのに今更帰るのも面倒くさい。しかも午後は雨なわけで、今しないとトレーニングできなくなってしまう。見せ物になるのは嫌だが、しょうがないと思い直し、とりあえずグランドを五、六周走り出したのだが、案の定大勢の小学生達がプールの金網にへばりついてこっちを見ている。具合の悪い事にプールの休憩の時間と重なったようだ。蒸し暑い夏の日にプールならわかるが、何が嬉しくて照り返しのきつい土のグランドを走っているのか。そんな事をささやきあっているに違いない。脂汗だか冷や汗だかわからないが、いつも以上に汗が出たような気がした。
しばらくして休憩が終わったようで、金網越しの見物客はいなくなり、それを良いことに、その場でリフティング、動きながらリフティング、アウトサイド、インサイドとボールタッチのサイドを限定してのドリブル、相手をイメージしてのドリブルといつものメニューをこなし、最後に百メートルダッシュを五本繰り返すとちょうど昼になった。
トレーニングを初めて三日目だが、だんだん体力が回復してくる手応えを感じる。始めのランニングにしてもいきなり一週目から息が上がっていたのに、二日目には三周目まで大丈夫になり、今日などは五周くらいでは物足りないくらいで、見物客がいなければもっと走りたいくらいだった。汗をしこたまかくと試験勉強の鬱憤が晴れるだけでなく夕飯も旨く感じるし、頭の回転もよくなるような気がする。それは記憶力が増すとか、論述式の問題の文章がすらすらと書けるとかの意味だけでなく、これから先自分はどう生きていけばいいのかとか、教職が自分にとって本当にふさわしい職業なのだろうか、適正があるのだろうかとかそういう問題について、冷静に判断できるというか、必要以上に不安になって物怖じしたりすることなく、どこか楽観的に物事をとらえられるようになるという意味も込めて頭の回転がよくなるような気がするのだ。
採用試験対策に始めたトレーニングだったが、ついでにこのままトレーニング量を徐々に増やしていって、試験が終わったら盆にある高校のOB会にでも行って、するどいプレーをみせつけてやろうかなんて考えたりした。これももしかしたらトレーニングのプラス効果で頭の回転がよくなった結果の意欲だろうかなんて考えながら帰宅すると、郵便受けに磯部さんからの葉書が届いていた。
それは暑中お見舞い申し上げますと暑中見舞いの体裁をとってはいたが、左半分には通っていた自動車学校の卒業検定に合格したことや、あとは筆記試験だけで今日今から受けに行きますだとか、帰省したら駅から電話しますねだとかが細々とした字で書き込まれていた。思わず鼻歌を歌いながら家に入ったのだが、どうしたわけか仕事に行ったはずの父親がもどっておりいつもの濃紺の国鉄の制服ではなく、灰色の夏の背広に着替えており、黒い式服やら黒いネクタイやらを旅行鞄に詰め込んでいるわけで、まさかと思うと、台所から入ってきた母親が義父さんが亡くなられたらしいんよ、じゃけえ、お父さんと一緒に九州行って来るけえ、あんた留守番しちょきんさいよと言い放つ。あわただしく現金を和紙に包んだり、数珠を鞄にしまったりしている。二、三日前に義父さんから姉のところに電話があって元気な声じゃったんと、と父親がネクタイを締めながら言う。どうやら交通事故らしかった。出張先で事故に遭ったらしい。帰りは明後日になるから、何かあったら電話するけえちゃんと留守番しときんさいと言い残して両親はあわただしく家を後にした。
そんなわけで、両親が出ていったあとも勉強する気にならず、風呂の水をかぶって汗を流した後は、作ってあったみそ汁と卵焼きかなんかを適当に口にして、ぼんやりと畳の上に転がっていた。外は予報どおり雲が張り出し、急に暗くなり、強い風が吹いたと思ったら突然夏の嵐になった。
生ぬるい風の吹き抜ける暗い部屋に一人でいると、なんだか同じ家、同じ部屋なのに、知らない人の家にいるような気がしてならなかった。ふと思い出して磯部さんの暑中見舞いを手にし、読み返すと、別の家にいるような違和感が増幅された。磯部さんからの手紙は京都の下宿に届くことはあっても岩国の実家には来ないのだと思いこんでいたわけで、いきなり葉書が届くとそれまで実家だと思っていた空間が京都の部屋のような気がしてきて、誰か知らない人の家のようだと感じていたのは実は下宿だったのかなどと妙に納得してみたりして、なにからなにまで普通じゃなかった。
しかし、二回三回と暑中見舞いの文面を読み返していると、自分が今いる空間の違和感がどうのというよりも、蘇ってきた山口の記憶のほうに気持ちがとらわれていき、ザビエル記念堂でのとんすらだのザビーだのの話まで思い出し、一人吹き出したりしていると、また電話が鳴った。
姉だった。両親が一時間くらい前の電車で出た事を伝えると、少し安心したようだったが、じゃあこっちに着くのは何時くらいになるんと聞くから、そんな事しらんよ、聞いちょらん。そこまでどれぐらい時間がかかるもんなんと聞き返すと、はあええ、あんた大学生のくせに役に立たんねえと小言を言われた。姉は義父さんの事も勿論大変だけど、父さん大丈夫じゃろうか気になるんよねなんて心配する。強行軍だから体調も心配だが、突然の不幸を目の当たりにして気持ちがねえ、またああいう事にねえ、ならんにゃあええけどねえと歯切れが悪い。言いたい事はすごくわかるし、それが故に何度も辛い思いをしてきた家族としては、それだけ言えば何がいいたいか充分すぎるほどわかったのだが、出かけるときの様子は特に取り乱したり、言葉使いが乱暴になったり、逆にひどくふさぎ込むようで、目がすわっていたりもなかったから、大丈夫なのではないかと、その事を伝えると、そうじゃね、着いたら様子を見ておくからと電話を切った。
夏の嵐は一過性のもので、通り雨も夕方にはすっかり上がった。官舎の表に車が止まるので、誰か来たのかと窓から顔を出すとクリーム色のカローラ1300ハイデラックスが見え、所だとわかった。所は車で山口から帰ってきたと言いながら勝手に家にあがってきた。話はすっかり泉に聞いていたし、泉にはお前からも言うて聞かせてやってくれなんて言われていたので、少し構えて迎えたのだけど、なかなか忠告めいた事を言うのは難しいもので、とりあえず姉の義父の不幸の一件を説明し、そんなわけで今誰もいないから出すものは何もないとかなんとか言っていると、扇風機の風を顔面に当てて目を閉じていた所はお前の姉さんの嫁ぎ先、九州なんかと振り返る。姉さんと言う場合、はじめの「ね」にアクセントがあるのが普通だが、地元のイントネーションで姉さんは「さん」のほうにアクセントがある。今も所はそんな感じで「お前のねえさん」と言ったのだが、それは月亭八方が「十三のねえちゃん」という場合と同じなわけで、大阪弁と周防弁に共通点があるなんて今まで気がつかなかったなと思った。しかし普通なら聞き流すような他人の、しかも義理の親戚の不幸になんで反応するのか不思議で、ちょっと違和感があった。去年だか一昨年だか長男を生んで里帰りしていた折、授乳しても乳が張るからと洗面器に絞った母乳をみせ、あんたら飲むかなんて笑ったのをいつまでも憶えていて、事あるごとに繰り返し、あれはなんかやらしかったなんて言ってた事もあり、姉のほうに引っかかったのかなと思ったが、ミカも九州は博多の生まれでとか言いだし、なんだ、そっちにひっかかったのかと納得がいった。
ミカとはもう別れるんじゃと所は言った。結局、あのミカという子、元の彼氏とは切れられないらしい。雨降って地固まるのことわざ通り、自分は危うくなった元彼とミカとの仲を取り持って仲直りさせる役目しか果たさなかったみたいだが、それでミカが幸せなら自分はそれで構わないのだと言う。自分はミカが好きで、ミカが幸せになってほしいわけで自分だけが幸せになりたいのじゃないから、ミカにとって一番ふさわしいのが自分でなくてあの元彼ならそれはそれでいい。昨日別れる話を切り出され、その事を伝えたら、気持ちは嬉しいけどちょっと重いと言われたそうだ。アパートの事にしてもそうだし、採用試験の事にしてもそう。あんたの気持ちはほんまに重い。どうせ一緒に棲むならあんな新しい白い壁のアパートでないとやだなとは言ったし、採用試験と私とどっちが大切なのっとも言ったけど、だからって言いなりになる必要はないし、そんな事できるかふざけるなって怒ってほしかったのに、こんなに優しくされたらもうあなたを頼りにできないじゃないの。そう言って泣かれたという。所はどうしてミカが泣くのかわからないと難しい顔をした。
あのアパートに泊めてもらった夜、所とミカって子が夜中にセックスするんじゃないかって気になって眠れなかった事とか、実は自分も童貞で、滋賀県は雄琴で筆下ろしをした話や、ゼミの女の子とコンパの帰り加茂川の河原でセックスした話は全部嘘だって事とか、全部ぶっちゃけて話し、おいおい、嘘じゃったんかって盛り上がったところで、しかしあれだななんて切り出して、お前も適当にしとかんとあれだぜなどと忠告しようなんて考えていたのだが、とてもじゃないがそんな戯れ言ですませられる雰囲気ではなく、いつ終わると知れない所の真剣そのものの恋愛観を八時頃まで聞いていたのだが、柱時計が八時を鳴らしたのを聞いて、急に所は腹が減った腹が減ったと言いだし、そんな事いわれても親はいないわけで食べるものはないしで、じゃ食べに出ようという事になり、所の車で郊外にできた24時間営業のファミレスにでかけた。
ところが所は、車の中でもつい今し方まで話していた同じ事をまるで全部忘れちまったかのようにまた一から話し始め、おいお前さっきそれ聞いたっちゃと笑い飛ばしたかったが、所の横顔は真剣そのもので、笑ったりするのもなんだかかわいそうな気がして、そうかとか、ええ?ほんまにかとか、まるで初めて聞いたように相づちなんかを打ってやった。
ファミレスに着いても、あんなに腹が減ったと言ってたくせにチョコパだけでいいなんて言い出し、カツ丼とラーメンなんか頼むこっちを見て、こんな時によく食べられるななんて言う。そりゃ自分が所ならそうだろうが、こっちは所じゃないんだしと思ったが、まあ事を荒立ててもなんだしと思い、すまんと謝っておいた。所はチョコパの上に乗っているメロンのかけらを長い柄のついたスプーンでつついたり、真ん中へんに沈んでいるチョコとアイスを混ぜたりしながらいっこうに口にしようとはしなかったが、その代わり、この日三度めの恋愛話を一からしはじめた。
ええ?またかよと今度こそ本気で言いそうになったが、口ではミカが幸せならそれでいいんだなんて言いながら、実のところ相当参ってるんじゃないのかなと思われ、それなら気の済むまで話させてやったほうがいいしなと腹を据え、はあぁそりゃそうだよなとか、わかるわかるお前の言う通りだよとか、ええ?ほんまにかなどと相づちを打っていたら夜中の二時近くになった。店員もちらちらとこっちの様子を伺っているようだったので、さすがにいたたまれず店を出た。こんな深夜に実家に帰っても、その雰囲気じゃ実家の両親が驚くと思い、幸いな事に今日はうちの両親がいないから泊まって行けと誘ったのだが、いや大丈夫だと繰り返し、駅裏の官舎まで送ってくれた後実家に帰っていった。
翌日、電話で起こされ時計を見るともう昼近くになっていた。電話は九州に行った母からで、あんた昨日何しよったんと怖い声を出す。その声の調子でもしかしたら父親の様子がおかしいのかなどと一瞬緊張したが、母親は九時すぎから何度電話しても出んけえ心配したし、なんかあったときにはあんたが中継して、あちこちに連絡とってくれにゃあいけんのんじゃけえ勝手に家を空けんさんなと怒る。なんだそんな事かと胸を撫で下ろし、所の一件を失恋話のところだけ抜いてかいつまんで説明し、メシを食いにでちょったんじゃと言うと、わかったとも、それならええとも、その事には何も答えずに、今日昼から葬儀でもう一晩泊まって帰るから、明日の夕方には着くからねと大まかな予定だけを告げて電話を切った。
昨日は勉強できてないからとりあえずやっておかないとと思い、急いで御飯にみそ汁をかけてかき込むと机についた。計画通りとりあえず苦手な教科専門をと、教科専門の問題集と広島県の過去問を集めた問題集を開いた。まあ、問題集をやるといっても四月からずっと取り組んできている問題集なわけで、今回で三回目になる。同じ問題集を何度も繰り返してやる勉強法は予備校時代に身につけたもので、効果絶大なのは実証済みだ。初めから問題を解いていき誤答だった箇所はチェックを入れた上、参考書などを見ながら別のノートに整理し直しなおしていく。二回目は一回目で正答だったところは無視し、間違えた箇所だけを拾ってやる。当然三回目となる今回は二度続けて間違えたものだけをやるわけだから、問題全体から言えば十分の一か二くらいのもので量的には少ない。試験まであと10日あるがあと三日もあれば終わるだろう。三回目が済んだらもう一度全部の問題にザッと目を通し、直前二日は教職教養を見直しておこうと思った。
二時間ほどやった午後三時頃、眠気で頭が重く感じ始めたのでちょっと前倒しでトレーニングに出ようかと思った。しかし、外を見ると文字通りのカンカン照りで、この炎天下に出ていく勇気はないなあと、しばらくセミの泣き声を聞きながら窓の外を眺めていたが、そうだ磯部さんに暑中見舞いの返事を出さなくちゃと思いつき、茶の間の水屋を探り官製葉書を見つけだすと、月並みではあるが、むくむくとわき上がる入道雲や青い海、パラソルに浮き輪、そしてスイカなどの絵を色鉛筆で描き、暑中お見舞い申し上げますと筆ペンで大書した。最後に葉書の左隅に岩国駅に着いたら電話してくださいとだけメッセージを添えた。
月並みなイラストの割には色使いが清々しく我ながらいい出来だなんて悦に入って見入っていると、電話が鳴り、葉書を握ったまま玄関先まで駆けだして受話器を取るとなんと磯部さんだった。磯部さんは弾んだ声で、岩国駅に着いたから電話しましたなんて、つい今しがた葉書に書いたとおりの科白を口にした。あまりにも偶然すぎて聞いた瞬間はひどく驚いたのだが、しばらくすると驚きは消え、その代わりに可笑しさがこみ上げてきて、腹をかかえて笑った。磯部さんは何が可笑しいんですかあと自分も半分笑いながら聞いたりしていたが、あんまりこっちが笑い続けるもんで途中から不機嫌になって、なんだか嫌な感じですねなんて拗ねたような声をだした。駅前から電話しているとの事だったのですぐに行くからと伝えて家を出た。
駅裏の実家から地下道を通り駅前で磯部さんと落ち合った。山口で会った時は原色使いのアロハシャツだとか、ジーンズのホットパンツだとかカジュアルな格好で随分驚いたのだが、今日は教育実習の時のような白いノースリーブ、レース使いの洒落たブラウスに紺色のスカートで頭髪も綺麗に櫛を入れ下ろしている。あれ?この前と随分違うねと素直な感想を述べると、実家であんな格好できませんよ、いろいろうるさいんですよと苦笑いしていたが、磯部さんはさっきの爆笑を根に持っているのか不機嫌な感じがした。
駅からすぐの中通り商店街の喫茶店向日葵へ入る。この中通り商店街は岩国一賑やかな商店街で、洋服屋に呉服屋、履き物屋に紳士服など大人向けの専門店がたくさん集まっていたから、当然町中の大人達でいつもにぎわっていたが、それ以外にもパチンコ屋が三軒、本屋が二軒、ゲームセンターが一軒、さらに最近できたくるくる寿司なんかもあって二十才そこそこの若者の多くもこの界隈に集まっていた。
板チョコのような装飾にガラスが入れられた入り口のドアを開けるとカランコロンと鐘の音がして、濃厚なコーヒーの香りに身体全身包まれる。右がカウンター、細い通路を挟んで左側の壁際に四人かけのテーブルが四つ五つ並んでいる。カウンターも机もダークブラウンに塗装され、店全体が薄暗い。カウンターには三つ四つ並べられたサイフォン、そして揺れるアルコールランプの炎。壁際には額装された向日葵の絵。向日葵はそんな店だ。
アイスコーヒーの注文をうけたウェイトレスがいなくなると、にやにやしながらあの暑中見舞いを差し出したが、イラストと大書された暑中見舞いの文字しか目に入らなかったのか、暑中見舞いの返事なんだなくらいの感じで、ああ、どうもなんて言って口をへの字に曲げたりして膝の上に置いた葉書を見ていたが、少しして最後の一行に気がついたらしく、はあっと低い声を漏らし、こんなん何が可笑しいんですかぁと指で最後の一行を指してへの字に曲げていた口を尖らせ不満を表す。どうやらさっきの電話の科白を聞いてからわざわざ書き足したと思っているようなので、それがさ、そうじゃないんだよな、実はさと事実を伝えると店中に聞こえるような声で、ほんとお?と叫ぶ。店主、半分くらい埋まっていた客席の客が一斉にこっちを向き咳払いなんかするもので、二人して顔を伏せ肩をすぼめると、磯部さんは本当なんですかと声を潜め、本当なんだよなこれがと答えると、さっきの実家の電話口の空気が蘇ってきて、無性に可笑しくなり笑い出しそうになった。ところが他の客の手前もあって必死で笑いを我慢したため肩だけがヒクヒク上下に動く。すっかり事情が掴め、さっき電話先で笑った理由なんかも理解できた磯部さんもその様子につられてヒクヒクし、二人してそんなお互いのヒクヒクを見ていると、山口のザビエル記念堂でトンスラがどうのこうのといって馬鹿笑いしたことまで思い出され、もう我慢できなくなって腹をかかえて笑いだし、再び客や店主は怪訝そうな顔で振り返ったが、今度はお構いなしに笑い転げると、体を九の字に曲げようとして上げた腿が机の裏側に当たりコーヒーカップがひっくり返りそうになった。
すっかり機嫌を直した磯部さんは、そういえば免許取ったんですよと言いだし、とりたての免許証を赤い定期入れから重々しく取り出したがすぐには見せず、見せてほしい?なんて笑うので、おねげえでごぜえますと両手をついて芝居がかった声を出すと、困った奴じゃのおと悪のりし、その免許証を差し出したが、見ると写真の顔がいつもに増して美しく、まるでタレントのブロマイドのようだったので本当は感動したくせに、それまでの流れから綺麗に写ってるねなんて言えず、しかたなしにプッと吹き出すと、え?やっぱ気取りすぎですよねこれとか照れくさそうに言いながら、磯部さんも吹き出した。
磯部さんの実家は五連のアーチ橋で有名な観光地の近くにある。二週間あった教育実習も、初めの頃は放課後の部活指導もしていたから、ゆっくり話す時間もなく、顔は合わせてはいたものの会話といってもきわめて事務的なものでしかなかったが、二週目に入り磯部さんが社会科の準備室で弁当を食べるようになってから会話がはずみ、放課後も部活には行かず教材研究と称して準備室に居残り、その実ほとんどの時間磯部さんとのおしゃべりで過ごした。指導教員の先生方も五時近くになると部活指導に出たり退校したりし、部活に出た先生も準備室にはもどらずそのまま退校するわけで、じゃあ準備室の掃除と戸締まりは君たちでしといてくれよなんて言い残して出ていく。簡単な掃除を二人でして、戸締まりなんかもすれば、それじゃ一緒に帰りますかとどちらからともなく言いだし、最後の三日間は二人で帰った。
高校は小高い丘の上にあり、それまではその丘を降りたところにあるローカル線の駅から汽車で帰っていたのだが、一緒に丘を下って降りたのに、じゃ汽車で帰るからなんて一人別れるのも、なんとなく失礼なような気がし、聞けば磯部さんちは例のアーチ橋の近くで、学校からでも歩いて三十分、学校下からだと二十分もあれば着きますよと言うので、じゃあって事で、一緒に家まで歩き、そこからバスで帰った。
一緒に帰った三日のうちの二回目の日には磯部さんの、三日目には自分の研究授業があり、帰り道は、大失敗に終わった研究授業の話だとか、辛辣な批評をした教官の悪口だとか、実はあの先生、自分が生徒だったとき良く注意されたんですよねなんて昔話だとか、研究授業の話題に終始した。
古い岩国の街は典型的な城下町で、五連のアーチ橋の架かる川を挟んだ山側は武家屋敷、海側は商人や職人町であり、身分制度そのままに分役によって居住区域もはっきりと区分されていたと高校時代、地理の巡見で知ったが、磯部さんの家は橋を渡って、しばらく海側に歩いた先、見るからに歴史を感じさせるその商人町の一角にあった。老舗の服飾店。かつては呉服を専門に扱っていたらしいが、戦後洋服が中心になったと話してくれた。
帰省するときはいつも実家に連絡して車で迎えに来てもらうのだが、今日は実家に連絡していないからバスで帰りますよと磯部さんは言う。じゃ送っていくわと二人でバスに乗った。バスの乗客は自分たち以外は運転手の後ろあたりにちらほらいるくらいでほとんど空いていた。二人が座った一番後ろのベンチシートから前をみると、車内はコントラストのきつい外の日差しのせいか、ひどく薄暗く感じ、おまけに良く効いた冷房が肌寒いくらいで、まるで鍾乳洞かなんかに入ったような感じがした。少し間をあけて隣りに座ってる磯部さんを盗み見ると横顔が笑っていた。
山口で会った時も磯部さんはよく笑ったが、なんだかあの時とは違うような気がした。教育実習の時も始めは口数も少なく必要以上の事は喋らなかったが、仲良くなってからは良く笑った。だから、二人で話している時いつもこの子は笑ってるような気がするのだが、じゃあ山口で見た笑顔と今では同じかというと、なんだか同じ笑顔でも、少し違うような気がする。その事を言うと、そりゃあ地元ですからねなんて言う。山口にいるような感じじゃあ過ごせませんよ。まあ、べつに何がどうってこともないですし、気にせず同じように振る舞っても何も起きないかもしれないですけど、実家に帰ると服装にしても行動にしてもなんだか自主規制しちゃいますよね。磯部さんは自分が箱入り娘なんだと説明した。それは嫌でしょうがないんだけど、地元に帰ると箱入り娘っぽくしてしまうところがあるのだと。
たしかに自分にもそういうところはある。京都の下宿にいるときは夜中の三時に煙草が切れたら迷うことなく買いに出るし、友人の下宿で夜更けまでビールを飲み酔っぱらって真夜中の妙心寺の境内を自転車ですっとばしたって何の違和感もない。しかし実家に帰ると、とたんにそうはいかなくなる。下宿にいれば当たり前の外食でさえ実家に帰ると妙にためらわれる。子どもの頃のように日が暮れたら家にかえらなくちゃと思い始める。夜中に煙草が切れてもまず買いにでることはないだろう。その事を伝えると、じゃ先輩も箱入り息子なんですねとまた笑った。
本当なら観光地に一番近い終点の一つか二つまえのバス停で降りれば実家の服飾店はすぐそこなわけで、都合もいいと思うのに、せっかくだから終点まで行って橋の辺り散歩でもどうですかなんて磯部さんは言う。もう五時をすぎていたが、太陽はまだまだ空の高いところにあって日差しは痛いほどであり、日が暮れ手前ならまだしも、こんな時間に散歩なんて普通ならとんでもない話なのだが、なにせバスが涼しいもので、散歩もいいかなんて気分になり、そうすることにした。
バスから降りて、しまったと思った。いきなりサウナ風呂に突入したような高温でむせかえり呼吸でさえ辛くなる。快適な温度、心地よい湿度でさらさらしていた肌は、ほんの僅か歩いただけでみるみる汗まみれになった。暑いねと言うと磯部さんも暑いですねと答え、いやほんと暑いねと言うと、いやあほんと暑いですよねと言い、暑い暑いと暑いばかりを言っていると余計暑くなる気がするねと言うと、暑い暑いと言っていると余計に暑くなる気がしますよなんて磯部さんはこっちの言うことを繰り返すばかり。みると手にしたバッグがやけに重たそうだったので、持ってあげようかなんて優しい事を言ったが、もしかしたら、もってあげようかなんてここでもまた繰り返すのではなかろうかなんて一瞬思ったりしたが、そこだけはちゃんと聞いていて、え?いいんですか?いやあすっごく重くてコインロッカーに預けて来れば良かったなんて後悔していたんですよとバッグを差し出すので、持ってあげると本当に重たくて、余計な事を言うんじゃなかったなどと汗を拭き拭き思った。これは散歩というよりは、修行とかトレーニングに近いなあと思ったが、橋のたもとを流れる川が西日を反射してきらきらしており、なんだか吸い寄せられるように河原に降りて川の水に手を浸してみると予想どおり冷たく、しばらくそのまま水遊びをした。
本来なら通行料を取られるあの橋も、もう五時をすぎているから無料ですよなんて、河原から橋を見上げて磯部さんがいう。自分が幼い頃、夕涼みにここに来ると近所のおじさん達が碁盤とか将棋盤を家から持ち出してきて、あのアーチ橋の一番高いところで碁や将棋を打っていたんですよ。あの高いところは川風が吹いてですねえ、そりゃあ涼しいんですよなんて目を細めるもんで、じゃあ行ってみるかって事でその橋を渡ってみたりしたが、正面から照りつける西日が強烈で、どこが涼しいんだ、バッキャロイと暴言を吐きたくなった。
そんなこんなで、橋を渡り終え対岸の土手にあるベンチにたどり着いた時にはもう暑い暑いと繰り返す余力もなく、無言でベンチに倒れ込んだ。しばらく黙ったままベンチに伸びていたが、背後にそびえる城山の陰が日の暮れにつれて少しずつ河原に伸びてきて、ベンチをも覆ってしまうと、川を渡っていく風が急に涼しく感じられた。その風はというと汗ばんだ肌に実に心地よく、ベンチに背を持たれかけた姿勢でじっと目を閉じていると、誰かが現れて柔らかいガーゼで優しく汗を拭きあげてくれるようなまさにそんな感じで、しばらく風の感触を楽しんだ。磯部さんの言った夕涼みの話も、まんざら嘘じゃないのかもなどと思った。
もしさ、もし仮にだよ、磯部さんにつきあっている彼がいてさあ、ある日その彼とひどい喧嘩をして、あんな奴とは絶対別れようと思った時にさ、タイミングよく俺が現れて君が好きだと告白して、ついふらふら俺にたよっちゃったけどさ、だけど同棲したいからアパートを借りてよとか、自分を放ったらかしにして採用試験の勉強ばっかりしてるのをみて自分と採用試験とどっちが大切なのとか、我が儘だとわかっていてあえて言った我が儘を真に受けて、君が言うのならとその通りにするよと、俺が言いなりになったりしたらさ、それって重く感じるかな?
そう聞いてみようかと思った。泉に話をして少しは気が楽になっていたけど、誰かに話したくてうずうずするその気分はまだ半分くらいは残っていた。同じ大学の学生だし、どこでどう繋がっているかわからないから、さすがに実名はまずいとは思ったが、例え話なら問題ないだろうと思った。それに、うまくすれば磯部さんの答えから磯部さんの恋愛経験やら、男性観なんかも読みとれる。ついでに同棲しているのにセックスしない事って異常だと思うかななんてことも、仮の話しだけどと前置きして聞いてみようかなんて思ったりもした。なのに、ベンチで風に吹かれているその心地よさといったら格別で、ホットケーキに乗せられたバターのように脳味噌はとろけていく。
あのさあ、もしだよ、もしさ磯部さんがさあ。
勇気を出してそんなふうに切り出してみたが、磯部さんも涼しい風に意識が飛びかけていたのか、いかにも眠そうな声で、はあい、なんですか、私がなんですかなんて答えるもので、だからさあ、その喧嘩がね、タイミングよくそのあれだよなんて、何を聞いているのかわからなくなるような質問を続けると、磯部さんはわかってないくせに、はあそりゃ喧嘩はいけませんよねなんて答え、いや、だから喧嘩じゃなくてさと俺が言った。頭の中ではその続きのセリフもが続いているのだが、気が付くと実際口は動いておらず、いつもなら右チャンネルで口からの音、左チャンネルで心のセリフがそれぞれ鳴っていて、見事にそれがシンクロしてステレオ放送になっている感じなのに、右チャンネルの音はせず、片チャンネルだけの壊れたステレオの、あの感じになった。いつから感じていたのか左の肩に暖かさとちょっとした重みが感じられる。それは決して嫌な重みではなく、むしろ懐かしく愛しい感じで、風が吹き抜けていくから、ああ良い風だなあなんて思ったりし、パウロ・ロッシがゴールを決めた後こっちにやって来てガッツポーズを決めてみせたから、問題集を開いて採用試験の受験勉強を始め、ページをめくると、どこかで見たステンドグラスが鮮やかに光り、例の宣教師が両手を胸の前で交差させて斜め上を見上げると、赤いコカコーラの缶のプルタブをどこかで見た事のある部屋でプシュっと開け、ぐいと一飲みしたから、脂汗をふきふき研究授業をしており、黒板に文字を書いて生徒の方に振り向くと、席に着いていた生徒全員が起立し、汗まみれになってどこかの駅のホームで手を振っていたので、目を開けると辺りはすっかり闇で、唖然とした。それは幼児の頃、おやすみなさあいと言って布団に入り、目をつぶった次の瞬間目を開けると朝だったという、あの感じそのままだったのだが、どうやら二人してベンチで「寝た」らしかった。
遠く鵜飼の船の漁火が漆黒の川面に伸びたりゆがんだりしていた。
家に戻るとまだ八時すぎで、これなら母親から電話があっても小言を言われる事はないだろうとほっとしたが、ラーメンでも作って食べようかなどと思って台所でがさがさやっていると、表で車が止まる音がした。あれ昨日と同じ感じだなと思っているとがらがらと玄関が開いたので声をかけると所だった。
玄関の白熱灯に照らされた所の顔はひどく日焼けしていて、おまけに脂ぎってテカテカしていたがどこか生気がなく、おや?と思ったのだが、所は土産だと小さな瓶を差し出す。なんだと聞くと、らっきょだと言う。らっきょ?と問い返すとそうだと頷く。どうしてまたらっきょなのかと思い、そのことを聞こうとしたら、鳥取砂丘に行って来たという。行って来たといっても昨日の深夜実家に帰ったんだから、どんなに早朝起きたとしても、こんな時間にもどれないだろうにと思ってもう一度瓶を見たら、本当はサハラ砂漠に行きたかったんだが遠すぎるので鳥取にしといた、昨日の深夜別れたその足で鳥取に向かい、朝方着き、昼過ぎまで砂漠を歩き回ってきたと言った。それは砂漠じゃなくて砂丘だろうがとも思ったが、ってことはこいつ昨日から一睡もしてないのかと思い、今度こそはとそのことを口にし、ラーメンでも作るから食って行け、悪いことは言わないから今日はここに泊まっていけと命令形で言ったが、いや実家に電話したからと本当か嘘かわからない事を言い、それでもとしつこく引き留めるのを振り切るようにして所は帰っていった。手元には鳥取名産のらっきょの小瓶が残った。
父は国鉄職員だが、父の父、つまり祖父もまた国鉄職員だった。そして祖父の父、つまりは曾祖父もまた国鉄職員だった。ついでに叔父にあたる人も父のもう一人の父で、父の弟の父親(なにせ昔の田舎のことだから、ここらへんの家族関係はきわめて複雑なので省略するが)である人もそうだった。ちなみに言うと、父は助役で駅務一筋で来たらしいが、父の父は機関士で、祖父も機関士。曾祖父も叔父にあたる人も、ついでに父の弟の父もみな機関士で、父の弟の父は叔父の運転する機関車に轢かれて死んだ。
高校の日本史の時間に、江戸時代の身分制度について詳しく学んだ時、青ざめた。我が家の家系が国鉄職員で埋め尽くされているのはこの身分制度のせいか。我が家の親族がみな国鉄職員になるのは、大工の子が大工になり、呉服屋の子が呉服屋の主人となり、本百姓の子が本百姓となって田畑永代売買の禁で末代まで年貢負担を強いられるように、生まれながらに決められた事であり、どうあがこうと自分もあの中共人民服似の制服を着ることになるのかと。
たしかに幼い頃はなんとなく大人になったら自分も国鉄職員になるのだろうと思っていたし、それも悪くはないななんて思っていた。貨物列車の入れ替え作業で家の真ん前を日常的に行き交っていた事もあって蒸気機関車に興味を持ち、写真を撮ったり型式やスペックを覚えて学校で披瀝してみせたりして機関車マニアと呼ばれた事もあったが、中学に上がるころには一転、死んでも国鉄職員になんかなるものかと思い始めた。
その理由はいろいろあるが、ひとつは仕事に出るときの父親の顔だった。仕事に出る時の父の顔はじつにつまらなそうだった。他の親戚のように機関士であれば、そのへんの事情は多少ちがっていたのではないかと思うが、本当につまらなさそうだった。そもそも父親は、家族そろっての夕食時などに今日仕事でこんなことがあってなあなんて楽しそうに仕事の事を話して聞かせた事はないし、いいか国鉄職員の誇りはなあなんて、仕事への情熱を熱く語った事もない。仕事仲間を家に連れて来て歓談するなんてことも皆無だった。だから駅の構内に住んではいたものの、はっきりと憶えているのは中共人民服似の制服に身を包み苦虫を噛みつぶしたような顔で家を出ていく父親の姿ぐらいで、出勤した先で果たして父がどんな仕事をしているのかはわかっているようでまるでわかってはいなかった。
だから国鉄職員にはなりたくなかったのだが、もうひとつ国鉄職員の仕事を忌避する理由は、そのわかっているようでまるでわからない国鉄の仕事で父親が精神を病んだことだ。他の仕事だったら病気にならなかったのかと言われればそうだとは言い切れない。他の仕事でも同じような病気にはなったかもしれないし、病気になったのは父親の気質の問題なのかもしれない。しかし、ただ一つはっきりしているのは国鉄のその仕事で病気になった、その事だ。国鉄職員の仕事はつまらない上に病気になるのだ。そんな仕事、誰だって就きたいなんて思わないだろう。自分だってそう。それだけは御免だ。そう思い続けてきたが、それじゃ他に何になりたいのかと問われても、選択肢は一つしかなかった。学校の先生だ。
なぜ国鉄が嫌なら学校の先生なのかと言われると、他の仕事を知らなかったからと答えるしかない。あなたは将来何になりたいのと問われて、宇宙飛行士になりたいだの、総理大臣がいいだの、女の子なら女優さんだ、シチュワーデスさんだと答える、そのレベルでいいならいくつだって就きたい職業を挙げることができたが、それは絶対になれない職業を論う事にも似ていた。ある程度その仕事の内容も知っていて、どう努力すればその仕事に就けるのか理解しているものでいえば、学校の教員と国鉄以外他の仕事は何ひとつ知らなかった。学校の先生に関して言えば義務教育の九年間で実に多くの教師と出会い、彼らの仕事ぶりはつぶさに観察していたから、教師の善し悪しに関してはかなりの目利きになっていた。多くの反面教師のお陰で、絶対になってはならない究極のダメ教師像も持っていたし、お気に入りの教師のいいとこをコレクションした理想の教師像なんてのも持っていたから、これなら自分にもできそうだと思っていたのである。
ただ、何の先生を目指すのかについては若干の紆余曲折があった。数学は数字音痴で、数字の羅列を目にしただけで頭痛がするほどなため鼻っから却下、理科もそれに準じ、英語国語の語学にも興味なし、音楽美術などの芸術系は好きではあったが先生とよばれるほどのこだわりも才能も無くと消去法で社会科になった。しかし、自分の将来を消去法で決めていいものかと気が咎め浪人時代、司馬遼太郎にはまっていたこともあり、自分は歴史学者になるのだと人聞きの良い動機を付け足した。歴史学科に入学して歴史学者を目指す。万が一なれなければ歴史学の研究ノウハウを生かし、画期的な歴史小説を物にする。最低でも学校の教師にくらいはなれるだろうと高をくくったのである。
父親はそんな気持ちを知ってか知らずか、ことあるごとに、なりたいもんになれにゃあ国鉄に入りゃあええと言って聞かせた。現役で大学受験に失敗した時も言ったし、浪人の一年が終わりいざ入試という時も、今度落ちたら国鉄に入れと言った。そしてつい先日も、山口に発つ前日にもいつもの口調で同じ科白を吐いた。
「身分」を絶やすことなく先祖代々受け継いできた尊い仕事に就いてほしいという気持ちももちろんあったのだろうが、本当の父の狙いはもっと他のところにあったのではないかという気がしている。というのも、自分はその科白を聞くたびに激しく拒絶反応を示し、猛然とファイトが湧いてきて、国鉄職員だけにはなりたくないというその一念だけで猛勉強したわけで、大学受験の時にしたって、そのお陰で合格したわけだし、最近になって、もしかしたら父の狙いはそこにあったのではないかと思うようになった。
ここで頑張らにゃあ国鉄職員になるでと言いたかったのではないか、と。